「同時多発テロに思う」 ~国際協力とビジネスとをつなぐ原点
by 野田さえ子
あれから6年が過ぎました。
澄み渡る空に、なにかを飲み込もうとする勢いで立ち上る煙。
世界貿易センターに1機目の飛行機が追突したすぐ後の光景を、マンハッタン島の対岸のアストリアの町にある自宅の窓から呆然とみていたことを思い出します。
2001年9月11日。
一晩中続く、救急車のサイレンの音。何度も低空で旋回するアメリカ空軍の戦闘機が残していく不気味なほど鈍く、腹に残る音。誰しも不安で眠れなかったあの夜のあとに、序々増えていくのは、キャンドルの灯。そして、病院わきに張り出された、行方不明の知人を探しだそうと手作りされたポスター。時間がたつにつれ、ポスターは序々に朽ち果てていくのです。「ああ、この人も帰らぬ人になったのか」と通り過ぎるたび、その事実をつきつけられました。
あれから6年――。
当時私は、国連プロジェクトサービス機関(UNOPS)のニューヨーク本部(現在の本部はコペンハーゲンに移転)にて、オゾン層破壊につながる物質の削減のための途上国の支援プロジェクトの実施に携わっていました。
具体的な仕事は、主にナイジェリア国内にあるクッション材等の製造を行う中小企業向けに、フロンガスを使用せずに製造できる機械を新たに購入し、技術者を派遣し、技術転換をさせることでした。
「オゾン層保護基金(モントリオール議定書の実施のための多数国間基金)」の資金をベースに、各国政府の代表からなる執行委員会が開催され、予算配分が決定されます。決定にあたっては、実施機関となっている世界銀行、UNIDO、UNEP、UNDP/UNOPSなどの各機関の仕事ぶりが、オゾン層破壊につ
ながる物質の削減量、スケジュール・コストパフォーマンスにより査定されます。この「成績」次第で次年度の予算配分が決定されるというかなりシビアな世界でした。
不思議なことに、機材と技術を無償で受け取るだけのはずの援助対象企業の中に、プロジェクト実施期間中に倒産してしまうケースがあることに気づきました。機械を購入した後に倒産が発覚すると、購入した機械を別の企業へ搬入させる必要があり、これが玉突きをおこして、手続きが非常に煩雑となり、プロジェクトが遅延、次年度の予算が少なくなるという悪循環に陥っていました。
お恥ずかしい話ですが、当時、倒産の原因はナイジェリアという国情、あるいは経営者の資質の問題ではないかと思っていました。
ところが原因は援助側にありました。
キャッシュフローという観点を見落としていたのです。「経営」というものが少しわかり始めた今となってやっとわかったことです。
機材を購入するのは、ナイジェリアの中小企業ではなく、国連側でした。しかしナイジェリアに到着した機材の関税については、一旦企業が支払い、その領収書を国連側に送付し、その費用の還付を受けるという方式をとっていました。ナイジェリアの場合、おそらく税関職員への袖の下も含んでいると思いますが、当時で2000ドルから4000ドル必要でした。
一定期間のストックではなく、日々あるいは月々のキャッシュフローが会社の生命線であることを常々体感している経営者であれば、これが何を意味するのかピンとくるでしょう。4000ドルもの大金を、融資がとりにくいナイジェリアで事前に払える中小企業はどのくらいあったでしょうか。正直に運用している会社であれば、黒字であっても資金繰り難で倒産、あるいは税関の手続きができずに機材は港に留まったまま、だったでしょう。
「援助をする側が、お金の法則についての感覚が研ぎ澄まされていないのではないか――」。
そう疑問を持ち始めたときに、起こったのが同時多発テロでした。
あのとき「生かされた」自分をこれからどう活かしていくべきなのか。
富の象徴である世界貿易センターが崩れ多くの命が失われないよう、持てるものと持たざるものの格差を埋めていく仕事のうち、私でできることをしよう。既存のポストにつく仕事ではなく、新しい価値を生み出す仕事をしよう。マクロではなくミクロの世界で確実に残そう。
そして援助業界に身をおくのなら、まずビジネスの感覚をとぎすまそう。
あの頃疑問に思っていた「国際協力とビジネスをつなぐ」という課題をライフワークとして、自分にしかできない新たな価値を生み出したい。
2001年9月11日の6年後の今、その思いを新たにしています。
*(社)中小企業診断協会 東京支部 城南支会「国際研究会」でのスピーチ内容をもとに、書き下ろしています。
野田直人によるニューヨーク同時テロ直後の記事はこちらに掲載してあります。