人の森国際協力>>アーカイブス人の森通信2012/11/05号

「コミュニティ」の幻想

reviewed by 野田直人

現在まだマダガスカルのプロジェクトに来ています。このプロジェクトも例外ではないのですが、村落開発系や、地域住民を対象とした農林水産業関連のプロジェクトに多いのが「コミュニティ単位の活動を勧める」というもの。僕の来ているプロジェクトでも、当初「コミュニティ苗畑を推進する」、というメッセージが対象の村々にも流されていました。

「当初」と書いたのは、もちろん既にこの点を変更する旨のメッセージを流しているからです。「苗畑は個人で設置すれば良い。コミュニティでやる方が良いと思う人だけ、コミュニティ苗畑を利用してね」と。

当地の状況を見てみますと、農業などの生産活動はほぼ世帯単位。土地や生産物の所有権も個人ベースで、日本の結(ゆい)のような相互に労力を提供しあうような仕組みや、グループでの生産活動の仕組みも見かけません。当地では、労力が必要な場合には労賃を払って人を雇うのが普通です。

コミュニティ単位の活動が全くないわけではなく、例えば村の道路の修繕などは,日を決めて「各戸から1名ずつ出席のこと」と、税金替わりの労力奉仕を求められることはあります。つまり、コミュニティ単位の活動は、必要性が高いとは言え、ある程度の強制力を伴うものであって、自主的な生産活動ではありません。

一方当地では、植林を行うのも世帯単位。Aさんはコミュニティ苗畑のある村の西3キロのところに植林地を持っていて、Bさんは北5キロのところに植林地を持っている、というようなケースも一般的だと考えられます。苗木は土がついていて重いですから、AさんやBさんは、自分の植林予定地近くで苗木を作りたい,と考えています。

このような場合にプロジェクトが資材を提供し、研修を実施して「コミュニティ苗畑でみんな一緒に働きましょう」とやってしまうと、実は多くの人にとって,余り都合の良くない状況を生じてしまう可能性があるわけです。一つには「コミュニティでやる=自主的ではない」というイメージ。もう一つは単純に「個人でやる方が便利」という事実。

一方支援するプロジェクトの側はコミュニティでやることが良いこと、というイメージを持っています。「みんなでやることは良いこと」「みんなでやることこそが参加型」と盲目的に信じている部分があります。住民が総出で集まって作業をしていると「絵的」には、住民参加が機能しているように見えます。

また、苗畑がコミュニティに一ヶ所ならば、指導やモニタリングも楽で、プロジェクトが容易に現状を把握しておけます。個人苗畑になると、誰が苗畑を持っているかの把握も難しくなり、現状を調査しようにも大変になります。Aさんの苗畑が西に3キロ、Bさんの苗畑が北へ5キロのような状況で、30人も個人苗畑を持っていたら…全部を訪れることすらもう不可能です。

女性グループ、組合、アソシエーション,コミュニティの他にも集団で物事を実施することを前提に考えることは、国際協力の現場では良く行われます。しかし、その前に、その地域の人たちはどのような単位で生産活動等を行っているか、良く観察してみる必要があると思います。

グループやコミュニティが単位になっていない場合、それは「グループやコミュニティでやる必要がそもそもないから」である場合が大部分です。

多くの社会での基本単位は個人や世帯。まず援助をする側が進めたい活動を、その単位までバラして実施できるようにして様子を見ましょう。グループ単位、コミュニティ単位でやる方が有利と住民自身が考えれば、次第にそのような方向へと動いて行きます。

援助する側が思い込みでグループやコミュニティを単位としても、住民の側にグループやコミュニティを単位とする必然性が感じられない場合、「それが援助を貰うための条件(だから仕方なくやる)」と、住民の側が考えてしまう危険性が大です。この場合、グループやコミュニティ単位での活動は、援助の終了と共に空中分解する可能性が大です。

まずは援助する側が「コミュニティ単位でやらなくては」という幻想を捨て、地域住民が合理的に判断できるような余地を作ってみましょう。

 

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